易との葛藤

私の先生の易の解釈は実に見事で、先生の易の解釈は、圧倒されるほどの不思議さがある。

若い頃から体が弱かった私は昔から病院なくしては生活できないほどだった。

病院は誤診ばかりするのに、先生の易は、私のどこがどう悪いかを見事に当ててくださった。

先生の占いを長年受けるうちに、わたしは人間ドックに入るよりも、易で病状を聞くほうが

信頼できた。

今から15年前、病院で悪性の癌だと言われた。すぐ手術をしなければ、命も危ないと言う。

細胞検査をすると注射針についた癌細胞がほかの組織に転移するので、細胞検査をしないで

手術をすると病院で言われた。

そのとき、わたしの易の先生は「切らないで大丈夫です!その病院はとにかくやめなさい!」

と言われ、わたしは既に手術する日程が決まっている病院に、「手術しません、しばらく

様子を見ます」と断りに行った。

お医者は、激怒し、「あなたは癌の怖さが分かっていない!命の保証がないんだよ!死ぬぞ!」

と、大変な剣幕だった。

怒るお医者さんが怖くて、怒られたくない為にあえてしなくて良い手術をして

お医者さんの気分を害さないようにしたい、と思ったほど、お医者さんは叫び声を上げて

私を罵倒していた。

「なんで手術をしないのか?」と聞かれたがまさか占いでしなくて良いと出ているとは

言えなかった。心配してくださった看護婦さんがいてわざわざ後から家に電話を下さり

他の病院を紹介して頂いた。

紹介された病院(癌センター)で再検査をすると、腫瘍はあったのだが良性だと診断された。

さらにエコーに映っていた腫瘍の姿は、前の病院で映っていた形と変わっていた。

前の時のエコーに移る腫瘍はゴースト状だったがガンセンターでは、綺麗な楕円形に映った。

映る姿がゴースト状だと悪性で、円形は良性でおそらく細胞が変化したと言われた。

結局、手術しないまま現在に至り、その当時あった腫瘍は今では触っても手に感ずる事も

出来なくなった。

「どうしてこの易を見て、切らないで大丈夫だと判ったのですか?」と私の先生に質問

すると、先生は「そう感ずるのです」とおっしゃられた。

この「感ずるのです」と言うのは本当の事なのだが、先生の教え方は意味の説明はなく

「感ずるのです」がほとんどだった。

私は、先生が易の意味をわかりやすく説明されない事を、あえて教えないのかもしれないと

思うこともあった。

易には64種類の卦があるのだが、同じ卦を見ても、先生は全く違う解釈をされる。

ある時は、この卦がでるとダメだと答えるのに、次回は、そのダメだといわれた卦を、

すばらしいですからいいですよと答えるのだから、こんな一貫性のない判断方法では

易を習得するのは無理だと心から思いできない自分と教えてくれない先生が

腹立たしく、易の神様に向かって、泣いて怒った事もある感情的な私だった。

しかし、その一貫性のない解釈方法で先生の易が驚くほど的を得た答えなので

やめる事ができなかった。

先生は、「易は意味を限定して覚えていては正しく読めません!易の本来の意味を壊して

感ずるものが本当の答えです!」

とおっしゃる。

さらに、先生が判断した解釈を忘れずに書きとめようとすると、先生は厳しい表情と声で

「書き留めてはいけません、今聞いた判断は覚えずに忘れなさい!

忘れても潜在意識が覚えていますから、それがよいのです!

暗記したちっぽけな顕在意識の記憶で読むような易では本物ではありません」とおっしゃる。

「易を習得するのに、易の本も読んではいけない!世間に出ている易の本には正しい事は

書かれていないと思いなさい」とも言われ、当時、まだ24-5歳だった私は、

先生の台詞をいつも疑問に感じながら、あいまいなまま付いて行くだけだった。

「専門書に関しては、昔の本だから、学者さんが書いた本だから、と言って信じては

いけない。易が出来ないうちに本で読んでしまったら、何が間違いで何が正しいと

判断できない。易の本を読むのは、将来易ができるようになってから読みなさい。

そうすれば、何が正しいかを識別できるようになります」

このような一種独特な先生の指導の方法では、私には、先生のように易ができるように

なるとは思えず、先生の判断は意味不明・理解不能・不可抗力・適応する術すらないと思えた。

わたしのジレンマを感じながら先生はいつもクールだった。

「もうダメだ!私には出来ない」と愚痴ると、「やめますか?」とつめたい表情で言う先生、

そのつど「やめません」と唇をわがまま娘のように口を尖がらせながらしぶしぶと

答えた自分だったこんな問答が20年以上も続いた。

自分には易は先生のようにはできるようにはならないだろうと思いながら、私は先生から

離れる事ができなかった。

易が先生のように出来なくても、先生の不思議な見事な易の判断を聞くだけで楽しく凄い

と感動できたから、私の知りたいと思うことを持参して、私の質問に易と先生がどう答えて

くれるか、それを楽しむ気持ちで通った事が、習い続けたと言える結果となった。

先生も、「自分は父からも教わりませんでしたよ。あなたにも教えていません。」

とおっしゃる。つまり、私は習ったというよりも、生きていれば嫌おうなく味わう

季節の移り変わりと同じように、易を空気のように意識させられる事無く味わって

きた気がしている。

私が易ができるようになったのは、いつだったのですか?と人から聞かれることがあるが、

突然にしていつからできるようになったという言い方はできない。

「易が完璧に出来ます!」とか、「いつから出来るようになりました!」

と言い切れないほど、易の深さは計り知れない。

できるようになった時期と言うよりも、易がだいぶ楽に読めるようになった、と思える

ようになったのは、習い始めて15年後くらいかと思う。

易を習っていた時、先生の教え方がきついと思っていた私だったが、今教える側になって

みると、教えることは、なかなか大変な事だと思う。

教える側の気持ちを知り、わたしはやっと先生に心から感謝できるようになった。

先生に受け入れてもらいながら、当時感謝の心が足りなかった自分が申し訳なく

反省の涙がでてしまう。

今の時代に、私の先生のような指導をしたら恨まれて大変だとも思うのだが、

私の先生の教え方が易を無意識まで掘り下げるように導いて下さったのだと思える。

先生は、「私のやり方でついて来れないなら、そんな人には来てもらいたいとも

思いません。結果として誰も本筮易ができる人が育たなくても、

いい加減な人を育てる必要はないのです」

とおっしゃっていた。

私には先生のような気骨はありません。